こじらせ劇場  物や思考はシンプルに 人生は豊かに 

シンプルに生きることにした人の目を気にしすぎるシンママ。毒親育ち。早期結婚、出産。旦那は不倫、借金、モラハラ、DV。すぐに頭の中がカオスになってしまうため物・事の簡素化を進めています。【物や思考はシンプルに、人生は豊かに】ただ減らすのではなく「最適化」する。

幸せって早い者勝ちじゃないし、椅子取りゲームでもなかったらしい

自己肯定感マリアナ海溝 さらにこじらせている私は

自分なんて幸せになれないし、なっちゃいけない
そのくせ幸せな人が羨ましくて
いつもずるいと思っていて

周りで楽しそうな人を見る度に
自分の分の幸せを奪われているような気持ちになっていた





毒親から逃げるように結婚して母親になって
忙しく過ごす毎日の中に
時たま訪れる猛烈な寂しさ

夫も子供もいるのに
誰も寄り添ってくれないような孤独感

家を出て、高校も中退し
夫の軟禁があったので
気がつけば友達は誰もいなくなった


小さな子供と小さな部屋
話し相手はテレビだけ

せめてもの救いはあの頃Instagramがなかったことかもしれない


誰かとつながりたくてTwitterを始めたけど
なぜか嘘をついた

幸せな主婦のふりをした

ちっとも家事育児に協力してくれない夫が
気まぐれで料理や家事をしてくれた時に
必死に感謝のツイートをしていた


幸せだと思われたかったというより
自分を誤魔化したかったのかもしれない





私は美人が嫌いだ
自分が好きな人間が苦手だ

キラキラ生きる彼女たちの近くにいると
振り撒かれたキラキラした何かを吸い込んでしまって
むせかえりアレルギー反応が出て
ひどい時は一日寝込む



私は、母からずっと「ブサイク」と言われて育った
もちろん決して美人ではないことくらいわかっているが
ばか、デブ、ブスとほぼ毎日言われていたのでみんなよりも容姿が劣っていると信じて疑わなかった

もちろん今もこの呪いに苦しめられている


そしてそんな母はよく私にこう言った。
「美人に言ってやれ。私みたいなブスがいるからあんたは美人でいられるんだって。」と。


私がブスでいるおかげで美人が美人でいられるって
今ならちょっとおかしくないか?と思えるけど
子供の頃の私はそうか、と納得してしまった。

おそらく母が言いたかったのは
”美人の役に立っているのだからブスでも気にするな”ということだったのではないかと今になって思うのだけど
残念ながら私はそんなに前向きな人間じゃない


思春期の私は
「私は美人が美人であることを引き立たせるためだけにブスに生まれてきたのか。」
という暴力的な結論に達した


そしてそこからさらに被害妄想が広がり
幸せな人がいるのは私が不幸だからなのか、と思うようになり


楽しそうにしているすべての人が許せない時期があった


小さな時から競争の激しい芸能界にいたのも関係あるかもしれない

オーディションでは誰かが合格すれば誰かが落ちる


幸せも同じように選ばれし者だけが勝ち取れる何か、だと思っていた



でもどうやら違うらしい

私が誰かを羨むように
私を羨む誰かがいることを知った



自分だけが不幸だと思い込んでいたが
私に対して「まだいい方だ」と噛み付いてくる人がいた


私も、攻撃できない性格なだけで
幸せそうなのに旦那さんの愚痴をす人に
そんないい旦那さんなのに、ただのわがままじゃん。
なんて心の中で思ったりしていた


そして幸せっていうのは誰にでも与えられ
どこにでもあって
一人がたくさん持っていても
誰かの分が足りなくなるものではないらしい


それはピンと来ないかもしれないけど
羨ましいあの人が目の前で不幸に見舞われた所で
自分にその分の幸せが回ってくるわけではない

そう気がついてから
幸せそうな人への気持ちが少し変わった


今だってリアルな知人のいるインスタアカウントを開くと
蕁麻疹が出てしまうし
サプライズをされた報告や
家を建てたり旅行に行ったりしている同級生の投稿に
素直に「いいね」って思えず
そっとアプリを閉じることもある




比べるから苦しくなる
わかってはいる

私とあの子は
性格も好きな色も苦手な野菜も違うのに
同じ幸せを渡されて
同じように嬉しいかはわからないし


そして何を持って貧乏とかブスだとか思う尺度もみんな違う


私は確かに貧乏で不幸を感じやすくネガティブだけど
それは今現在の自分が思っていることで
誰かの期待に応えるためじゃない

だからいつかこんな生活から抜け出してやる、という気持ちで生きているし
不幸な私を楽しみにしていたのに
なんか最近楽しそうだからつまらない、と思われても困ってしまう



私はリアルな人間で
誰かの作り上げたキャラクターではない


道化でありたいとも思うけど
そんなものになりきれるほど器用じゃない



私と同じように、幸せは椅子取りゲームだと思っている人は
私が「変わる」ことにとても敏感な気がする



きっと動画やSNSの隅々までチェックして
自分の想像した私でないことに勝手に絶望して
そして唐突に「がっかりした」と言い残して去っていく


そこで私はもちろんダメージを受けるのだけど
残念ながらその後誰かが幸せになることはない


何も変わろうとしない人ほど
先に行こうとする人の足を引っ張る

その人を足止めした所で
自分が前に進まない限り
何も変わらないのに




誰かの幸せを素直に喜べなくていい


でもそのせいで自分が不子王になっているわけじゃないってことだけは
いつでも思い出せるようにしておきたい


そして、自分自身も
成長することを恐れずにいたい








他人の幸せが許せない そのまま変わらないでという束縛 【変化・進化・成長⠀】私は立ち止まらないぜ


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